もうみた? と昔のともだちが急にメッセージをよこして、ぜんぜん知らないタイトルだとおもって調べたらライアン・クーグラーの新作だった。渋谷のシネクイントと、新宿のキノシネマでいちどずつみた。

30年代のミシシッピ、見渡す限りの綿花畑と「白人専用」の標識。サミー(マイルズ・ケイトン)はギターの腕を試したい。父は牧師で、悪魔の音楽は悪魔をよびだすぞときつく釘を刺される。双子の兄弟、スモークとスタック(ともにマイケル・B・ジョーダン)が黒人コミュニティのための酒場をひらくというのに駆り出されて、ブルースをめいっぱい演奏して称賛をうける。やがて闇のなかからやってくる招かれざる客たちは「友情と愛を」と不気味に口走りながら、黒人たちを食いものにしようとする…

濃い口の描写がこれでもかと連打されて、後味をたのしむというよりも、もうこれ以上たべられませんとなるまでいっぱいいっぱいに詰め込む映画だ。人種の歴史に直接に言及しながら、不条理な暴力のことを超現実のモンスターに仮託して大乱闘をみせる。リアリズムでありながら、幻想的でもある。

シーンとシーンをつなぐやりくちはかなり手慣れたものか、あるいは投げやりなのか。ザクザクと切り貼りして機能的なテンポになっている。映画はある一日の出来事を描いていて、クロノロジカルに進行する。いくつかの異なる場所で起こったことをあまり複雑に処理しないでベタベタとつなぎあわせていく。接続詞にあたる成分を抜きにして切り貼りするやりかたは「ああ、これでもつながるんだ」と爽やかにみえるいっぽうで、味気なくもある。

導入にひねりがないのがもったいない。冒頭に適当なアニメーションを流して、ナレーションに適当な主題を話させている。それから結末にあたる部分を謎めかして先見せして、一日前にフラッシュバックして最初から語りはじめる。その手続きはよくあるやりかたにみえて、あざやかな印象を残すほどのものでもない。

語り口はこれに限らず凡庸にみえたもので、物語時間を前に進めるための会話とか回想はかなりメロドラマ的だったとおもう。いくぶんダラダラと進行して、酒場(ジューク・ジョイント)の夜がはじまったあとの、超自然的で無時間的な現象の描きかたが映画を骨太にする効果を担っていた。とりわけ、音楽の効果がいちじるしかった。

音楽とはブルース。時代と舞台のことを考えたらブルースと悪魔をめぐる伝説について述べるのは自然ななりゆきと納得させられるけれど、いま音楽と通して歴史の話をするためにブルースに先祖返りするセンスははっきり興奮させられた。流行音楽の原型としてブルースの話をするのではなくて、ブルースそのものの話をメインストリームのど真ん中に落とし込む。そのやりくちは流行文化のなかにあって、クリシェからもっとも離れたところでまぶしく燃える尊厳だとみえた。

いちばん気に入ったシーン。ジューク・ジョイントでサミーがギターを担いで歌い出すと、ブルースがミシシッピの夜を超現実的なフィールドに変換する。ファンクロックとディージェイが流れ込んでくる。仮面と装飾をまとったザウリダンサーと、桃色のきらびやかな京劇の踊り子まで召喚されてくる。ギター一本のブルースが過去と未来を飲み込んだおおきな音楽に発展する様子を、ひとつのモチーフからはじまる音楽の展開として聴かせて、ひとつのカメラの動きとしてヌルヌルと動いて映す。それがこの映画の映画的カタルシスの極めつけだった。観客にとってのこの幸せな時間がサミーにとっても人生の頂点のひとつだったことが結末で述懐されると、ますます印象に残るショットだった。

俳優たちは一貫して黒人英語(AAVE)で演技をしている。主役のマイケル・B・ジョーダンは『クリード』と『ブラックパンサー』でおおきな役を完璧に我が物として演じたあと、こうして自分のコミュニティの言葉でおおきな仕事をしているのが格好よくみえた。知的で情熱的なみんなのヒーローみたいに箔がついたあとに、それだけじゃないところを力強く見せているようにおもった。

いくつもの驚きをもって映画がまとめにはいろうとするとき、ふと知っている顔がスクリーンに映った。バディ・ガイだった。嘘でしょ! といって、エレクトリックブルースのライブ映像が流れるのをみつめる。バディ・ガイの傍らには「キングフィッシュ」がいる。名前も顔もちゃんとわかるのだ。ところがどうして、ブルースそのもののことを最後に熱心に考えたのはだいぶ昔のことのような気がする。映画はそこに光を当てて鮮やかに思い出させた。