ハヤカワ文庫から出ている空想科学フィクションの短編集を読んだ。
十篇がならんでいて、映画の原作になった二作がサンドイッチする構成になっている。こんなラインナップだ。
- トータル・リコール
- 出口はどこかへの入口
- 地球防衛軍
- 訪問者
- 世界をわが手に
- ミスター・スペースシップ
- 非O(ナル・オー)
- フード・メーカー
- 吊るされたよそ者
- マイノリティ・リポート
順番に読み進めて、冒頭の二作が空想のギミックを狙い通りに作用させて短編の余韻ある味をだしたあと、しばらくそれよりもすこし落ちる素描的な小品をみせて、最後に中編で締めるようになっていた。
「トータル・リコール」は、個人的な記憶を消したり書き換えたりするのを売り物にする企業が、ひとりの人間の記憶の底知れない深みに土足であがりこんで、パンドラの箱をあけたみたいな騒ぎになる話。企業の論理が人間らしさを過小評価して調子こいているのをみせたあと、重役たちが痛い目にあって救いを与えないのが、いま読んでスカッとする勧善懲悪譚になっているのがおもしろい。
「出口はどこかへの入口」はかえって、制度の奴隷となって主体性をなくした人間が、主体性のないことによって脱出機会を失う話。一発逆転のカードを願いながら虫のように生きては、そのカードが配られても的確に切ることはできまい。すべては自己責任として幕引きするのは酷薄ながら、弱いものが権威主義を支えることの道理の通らなさを突いて切実にみえる。
そのあと続く小品集は、冷笑的なユーモアひとつで押し切る一発ネタの体裁が濃くて、あったりなかったりするオチはそれほど心をつかまなかった。
明白に失敗しているのは「ミスター・スペースシップ」で、もし無名作家の手になるものとしてこれひとつ読んだら、力量とか素質とかにいちどに味噌をつけて、すぐさまこれを刷るような媒体まるごと燃えるゴミに出すほどだめだった。大失敗がひとつあるのがまる見えになっていると、なんとなくまわりの小品も失敗作にみえてくる。
とはいえ、だめな性質の失敗作だとわかっていても、若い作家がそれをみずから葬ることはあるいは生活のためにできなくて、書いたものはなんとか売り抜けるしかなくて、どんなに粗悪な媒体に載ったにせよ作品は署名つきであとに残された。よりおおきい仕事に成功して名をなしたあとに、できればみせたくない失敗作も作家的連続性のなかで見つけ出されたのだ、とおもえば数奇なことともみえる。
失敗を証拠隠滅して、非の打ちどころのない大芸術家としてまつりあげるのでもなく、いちど大失敗しているからといってすべてに非をつけるのでもないのは、かえって誠実なことかともみえる。俗っぽさの下限をみるのはいいことだ。疑似科学はもとより高尚なはずもなく、これくらいでいいのよ、とすればすがすがしくもある。
三秒で考えたみたいな「ミスター・スペースシップ」の最終節は明らかに失敗しているけれど、そんな安いオチをそのまま出すのはいかにも豪胆だ。構想幾十年の大作、みたいにして失敗するむごさに比べて、構想三秒で安く失敗するのはかえって好感もする。ひとつのエラーでキャリアが破滅することはなかった時代のことではある。いまがそうなのかどうかもよくわからないけれども。