傑作だとおもったアニメ映画の続編も一週間だけ映画館でかかるようだといってみにいった。公開は93年、ぼくの生まれた年だ。
巨大ロボットが身近にある、ただしコンピュータがすべての人間のポケットにいきわたってはいない、架空の世紀末の日本列島を舞台にしているのは前作と変わらない。ロボットは暴力装置として権力のもちものになっている。しかし映画はあふれる暴力をロボットに託さない。バトルアクションは冒頭と末尾にすこしずつあるだけで、そのふたつにはさまれた時間はいちじるしく晦渋だ。ロボットもよってもちろん快をもたらさない。
人間の陰謀と良心、正義と悪、軍人と文民、自衛隊と警察、戦争と平和、米軍と憲法、あまりあるジレンマのことを寡黙に描いて、道理がほとんど孤独さと等しくなるまでに練りあげた心理世界の競争を描いている。胸のすくようなドラマもアクションもみせながら、苦いリアリティから目を逸らすことを許さない。厳しい態度は前作が敷いた成功のレールを離れて、異なる水準のいちじるしい達成がある。
冒頭の場面はこう。国連の頭文字を刻印した白いロボット戦車が悪魔に魅入られたように後ろ向きに逃げすさっている。黒字に白文字のキャプションがでる。99年東南アジア某国。
なにかが戦っていて、なんの戦いか知らせないのは、前作の導入部をなぞっている。蒸した夏の昼の熱気が空気を白く濁らせている。青いマスクの操縦士がロボット戦車を操っている。胸には漢字二文字の姓が刺繍されていて、一文字目は影にはいってみえない。二文字目は植とみえる。
コンピュータのフィードバックに反応して、林の向こうに潜んだ敵をにらんでいる。歩兵隊がゆっくりあらわれる。ロボットは防戦一方だ。ロケット弾の一斉射撃でなぎはらわれて、少ない仲間もパニックのなか倒れていく。
戦いがやんで白い土に黒い水たまり。沈められた戦車には国連の頭文字の刻印がみえる。コックピットをあけて生きた人間があらわれる。ひび割れた多神教の神像が見下ろしている。
タイトルロールへ。ここまでが謎をみせて映画の基調を決める最初の場面となる。このあとのドラマは暴力同士のあらそいをみせない。代わりに描くのは、個人的に隠された因縁、三宅島から飛び立って消えた米軍機、横浜ベイブリッジへの空爆テロ、警察庁を攻撃する自衛隊、占拠された東京、法的根拠のない戒厳、それを止められない幕僚長と政治家たち、アメリカへの謎めいた資金移動。むずかしいネタで山盛りのシナリオだ。
陰謀が根をはった犯罪のありさまは、暗く狭い部屋で暗く狭い心が夢想した時代錯誤のよう。自衛隊のクーデターもの、と見立てればそのとおりにはなりながら、悪意の精神的支柱のようなものは立たず、善意の大義も立たず、おのおのの自発的行動がただ社会を自壊させていくのに過酷なリアリティがある。国家、憲法、国際関係のことを描くように見せかけて、実は個人の魂のありようを描いているのだとも読ませて説得力をもたせるのは、ひどく高度な技のなすものだ。
大難解とおもう。ことの因果に追いつくことは最後までできなかった。問題は解決したものより多くが散らばっておきざりにされた。ひとりの容疑者を捕まえることがある時点で劇中の目標とさだまって、彼を捕まえても問題は解決しないことは無言のうちにわかっているけれど、それでも捕まえないわけにはいかないから捕まえるのだ、とまさしくそれ自身が目的化する。生きることの本質的な無意味を知って、なお生きることを選ぶ、という決断を肯定するのにためらいがちであるような映画。
おのおのが与えられた場所でできるだけのことをするのは美徳。しかし個別に正義を志向していた美徳を、すべて集めて和をつくればどうしてか全体では悪にかたむいている。作りあげたものは誰の悪意ともなく崩れていく。低いところに果実はみのらず、では高いところにみのるかとも知ることはかなわず、果実はあると信じたことが誤りの幻想だったかとおもえば、いたるところに現実は裂けて虚構があらわれる。
なにも言うことなどないと突き放すでもなくなんらかの仮説だけを提出して、どこにも進まずもの悲しいまま終わる映画。よくわからないとしかいいようがないのに、よくわからない説得力が目と耳をスクリーンに釘付けにさせて、どこにもたどりつかなかったことにふたたび圧倒される映画。二十世紀末のアニメづくりはポストモダンの世界でぶっちぎりの先頭をリードしていたことを再確認させて、無意味の無意味さを血が出るほどむごたらしく教える映画。