この月のなかごろにはじまったばかりだとおもっていたアメリカ映画がたったの二週間で上映終了になってしまうのをみて、最終日の最後の回にかけこんだ。
最初のショット。たそがれた荒野のバイパスを歩くよごれた裸足、ホームレスの男。怒ったようにうわごとを叫びながら歩いても、いちめんの荒野に残響はない。看板を横切って、不意にそれは背後の荒れ地がデータセンターの建造予定地であることを指し示している。
その足が荒野のなかの町をおとずれると、視点は切り替わって保安官(ホアキン・フェニックス)のパトカーの車内で、別のパトカーにマスクを着けろと因縁をつけられる。車内にひとりでいるときにマスクの意味とは? と反発しながら、同調圧力はマスクを着けさせて、カメラは保安官のイラつきを映す。エディントンは、彼が保安官の役をもつニューメキシコの町だ。
データセンターとコロナウイルスの話を脈絡なさそうに立て続けにならべて、やがてBLM運動の勃発と発散にも言及して、映画は辺鄙な土地の若者たちはもちろんのこといい大人たちまでがインターネットの使いかたをミスって心安らかでいられない混乱のありさまを矢継ぎ早に映していく。ミスるとは情報の過剰摂取のせいで精神を濁らせるということで、それは映画の外にあってもこのごろおよそ全人類がミスったことがあるのとおなじミスのことのようだ。
コロナウイルスが人類をほろぼすかもしれなかったことよりも、火事場泥棒のテクノロジー企業が人類の精神を遅滞させて、いまとなっては荒野のデータセンターだけがあとに残る。そんなあたりがシナリオの総括になっていて、それは比喩でもなんでもなくたんに適切な報道ともみえた。
保安官の役がすごくよかったとおもう。そんなに悪くはないおじさんがオフビートな嫌がらせに困らされてイラつきを募らせていく話かとおもってみているうちに、おじさん自身のほうが悪漢に育ってまわりを困らせていく揺れ動きがいい。
だいたいいつもへっぽこな負け犬であるところのその保安官が、荒地の夜を背後に長距離射撃をするとき、その目と表情をおそろしく冷酷に映しているのは痺れた。最終盤の、みえない暗殺者に追われる保安官が踊り狂うみたいに逃げ回ったかとおもうと、オーバーキルな重火器を手に入れて大暴れする妄想めいた場面もよかった。バカバカしい滑稽さで畳み掛けるのは、クレヨンしんちゃんの映画をみて愉快になるのとおなじ爽やかさがあった。
アリ・アスター監督の作品をみるのはこれがはじめてで、たぶんホアキン・フェニックスの存在感のために、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)作品みたいだったなと連想していた。作家のがわでも、PTAの『インヒアレント・ヴァイス』とか『ザ・マスター』をきっと意識しないわけにはいかなかったとおもう。しかし無気力なおじさん主人公を等身大の英雄あたりに安住させないで悪漢に育てるのがいい。陰謀論の大風呂敷にいろいろ並べてプロットを複線化して、すべてを解決しないで幕引きにする技巧がみえるのもいい。
PTAの『ワン・バトル・アフター・アナザー』がディカプリオを好感のもてるお父さんとして直線的な語りかたで仕上げたよりも『エディントンにようこそ』が保安官を妄想に陥らせるやりかたでとっ散らかった印象に仕上げたほうがぼくにはお気に入りになっていそう。
情報通信テクノロジーが人間を荒廃させる様子を描いて魅力的な映画。いまの時代がなおその荒廃のまっただなかにあるのを踏まえて、まだマス文化はこの映画から皮肉や機知を受け取る準備ができていなそうだから、公開二週間で打ち切りは酷なようで、もっともなようでもある。