金曜日のレイトショーでアニメ映画をみる。もうすぐかかる新作のプロモーションのために前作を復刻上映していたようだ。2021年の作。
楽屋落ちの映画にみえてしまっていた。主人公のハサウェイ・ノアの葛藤がいまいちピンとこないまま映画は進行する。それが寡黙であることをかれに演出するわざとおもえば、トラブルはこちらの咀嚼力にあって、映画は成立するものだ。でも、次に述べる事情を踏まえると、コミュニケーションの失敗はあらかじめ予定されていたし、単に風情を欠いた不成立の映画にみえる。
ハサウェイが仮面を脱いだほんとうの姿を暴露するやりかたに盛り上がりを欠いていて、むしろあとから「あ、そういうことだったの」と気づかせられることになる。映画とぼくとのあいだにコミュニケーションが失敗したことは、ただちに映画に全責任があるとはいわないけれども、不幸な経験であったことはたしかにおもう。
なんだかピンとこなかったなとおもって作品情報をあとからさらってみると、映画の筋は三十年以上前の原作小説がすべて詳らかにしていたことがわかる。そうとわかれば、映画が「もうオチを知っているひと」のために演出されたものだったという経験的仮定が説得力をもって迫ってくる。ほんとうはどうだったかなんて知らないけど、そうおもわせてはいずれ興ざめだ。
もっとも、はじめから冷ややかな目でながめされられてはいた。ギギ・アンダルシアというヒロインがいて、少女と呼ぶには十分に成熟しているこの女性はあくまで少女の強さと弱さを秘めているのだとシナリオはつとめて造形している。そうかとおもえばしかし、唇とか大腿にせまってフェティッシュ化するカットをカメラはむやみに映しては挿入する。それがシナリオのために奉仕するショットであればたかがアニメーションのなかの少女を性的に映そうと別に構わないにしても、魅力がいまいちわからないおさないヒロインのことを指さして「この子は女性なんですよ、セクシーなんですよ」と説明を加えるためだけにいくつものショットを割いてしまったら、その程度の存在感をしかスクリーンのうえで発揮できない俳優を助演に抜擢してしまった映画が名作とは決してなれないのとおなじように、このアニメーション映画もまた凡庸にとどまるしかない。