最寄りのショッピングモールにある本屋を冷やかしたら、たわいもなく通りすぎる平積みの一隅におもいがけなくおおきい名前がみえた。もう何年も前に亡くなってしまった作家のあたらしい随筆集を、文庫にしてはずいぶん高いとおもっても持ち帰って読む。
はじめに講演録、次に雑誌記事と新聞記事、末尾に芥川賞選評の短文、という順にならべてみせている。おおむね平成前期から中期からあつめてある。いちどだけ令和に踏み込んでいるのもみえる。それからまもなく亡くなっているわけで、それは最晩年まで公の仕事のあったことを知らせている。
世の中が豊かになり、それが二〇年、三〇年、四〇年と続くと、人の話す言葉や書く言葉が切れ切れになってくる傾向があるという。(中略)反対に、世界が何らかの危機にひんしていたときには、言葉がもっとしっかりしていた。もっと精密に、もっと綿密に物事を伝えていた。ある意見やある認識をひとまとまりにしっかり述べることができた。ところが平和な時代が続くと、だんだん言葉が切れぎれになってしまう。
これはいったいどういうことでしょう? おなじような平穏の中にいる人間たちは、いつの間にか生活の様子も同じようなものになるんです。そして、ものの考え方が同じようになる。正確にいうと、「同じようになった」と思ってしまうんですね。だから、あまりしっかりと話さなくても自然と意思が通じると思い込む。(137)
これは「言葉について」という講演録から。2012年。こちらはまったくその平穏のなかにいる側にして、どうりでいつも困らされているわけ、と腑に落ちるような。古典に格があらわれるのは、格調というよりもむしろ精密のたまものとおもえば、たしかにそうやなと目からウロコもおちる。といって、緻密なことを述べられないのを時代のせいにして逃げを打ってもしかたのない…
ここもよかった。講演録「野間宏と戦後文学」より、2003年。
雨が降っています。ことしの五月は半ばごろから何だか梅雨のような天気、奇妙な五月と思っておられる方も多いと思いますが、これは一九四五年、つまり昭和二十年の東京の五月の天気にそっくりなんです。あの年も月の半ばから梅雨のような天気が続いて、降れば肌寒いほどだった。おかげで敵の空襲はこない。けれども余りうっとうしいので、「空襲がないのはありがたいが、これじゃあこっちの体が持ちやしない」なんて年配者が嘆いているのを、私は聞きました。中には「陽気まで狂いやがったから、この戦は負けだ」と理屈に合っているような合っていないようなことを口走っている人もいました(183)
とりわけ圧巻にみえたのは「馬の文化叢書 第九巻「文学––馬と近代文学」解題」というので、これは作家が編集責任者としてあんだ明治以降の文学アンソロジーが「日本人の生活の中から馬の姿の消えていった過程(263)」をなぞることをねっとり伝える。医者が村にきて馬を去勢するのをのぞきみしにいく少年の話。墓荒らしをして馬肉にありつこうとするよそ者の話。一頭だけの馬を軍馬といって売りにいく百姓の話。運輸会社にとってかわられて没落したかつての名馬喰の話。こんなにもあるかと興味深くまた要約ではなくて作品を読んでみたいとさそわれている自分を発見すればさすがの名文家とおもう。
といって森鴎外のほかはひとりも知っている名前のないうち、伊藤永之介の「馬」と千葉治平の「馬市果てて」のふたつが、どちらも宮城県北の馬農家のことを題材にして、戦中と敗戦後の景色をのせているらしいのをおぼえておく。図書館にききにいけば貸してもらえるかな。
馬といって文学史をととのえるのをいっぽうに、競馬場の切り詰まった景色をほとんど短編小説のようにさしだす「だから競馬はやめられない」もよかった。勝利することと命拾いすることが紙一重とおもわずにいられないのを、これも「私」の伝聞という形式で小説家の手さばきで暗示する「馬券的中の恐ろしさ」もよかった。