ファーストデーの割引で映画をみる。2025年のアメリカ映画。

都心のビル群、首都高、スクランブル交差点、雑踏のモンタージュ。改札を駆け抜けて電車にまにあわない大柄の男がひとり。オーディション会場には駆け込みでまにあったようだ。

フィリップ(ブレンダン・フレイザー)は在日七年目のアメリカ白人で、役者のしごとをしている。どうも伸び悩むようすで、書割がわりの一本木の着ぐるみを着て虚空をみあげて「なにやってるんだろうな」というぐあいにたそがれている。

早朝の電話がフィリップを叩き起こして、いまから埼玉で「かなしむアメリカ人」の仕事があるからいけと命じる。葬儀場なのだった。参列者は端から端まで号泣していて、いくぶん過剰に芝居がかっている。いや、おれも役者にほかならないのだから、と腰を据えようとすれば、うわっ! 棺の故人が頭をもたげた!

でっちあげの葬式、言いかたを変えれば幸福な生前葬をみとどけて、ほら、次の遺族が来るから! と多田(平岳大)にうながされつつ名刺をもらえば、こうして儀礼を演じせしめることが彼の事業なのだった。会社の名前を「レンタル・ファミリー」という。映画はフィリップがこの会社で、父無し子のためのニセ父、引退俳優のためのニセ記者、ニセ結婚式のためのニセ新郎、こうしたものを演じていくさまをみせる。

モチーフはおもしろいとおもって、それでいてバランスを欠いた表現が次々あらわれるのを興ざめにおもってながめた。演じることをテーマにして映画を撮ったら、ふつうは映画自身がそのテーマに食われてしまいかねない。しかし現実には、斬るか斬られるかの深刻な主題をもちあげて、甘ったるげな仕上がりになっているのが残念な肩透かしとおもった。レディメイドな着想の寄せ集めで閉じてしまって、それより高いひろがりには至らなかった。

広告キャンペーンだけでなく劇中人物のセリフも一貫して日本は、日本は、といっているが、病んでるのは日本というより東京の特異な労働文化と拝金主義だけでしょ、と皮肉な気持ちでみせられることにはなった。おなじ大都会でも大阪では成立させづらい筋書きは、病んだ東京のスナップショットとしかいえない。

深刻なこととそうでないことの区別をうまくつけることがうまくできずに、あるいはいくらか積極的な態度で、そこにある問題をみなかったことにする。責任をもってそれを語ればかならず残酷になるとわかるものを、わざとあいまいにだけ語ることで責任をのがれて、なんか悪くない雰囲気だったよね、と反省を欠いたまま前に進もうとする。そのような態度こそきわめて「東京的」な映画、とみえてしまった。

父無し子のミア(ゴーマン・シャノン眞陽)との出会いでフィリップが変わっていく。しあわせな父子関係をもったことさえないのにニセ父を演じられるわけないよ、と狼狽したところからはじまって、かえって父のいないフィリップこそ、父にはこうあってほしかったという像を自分自身に投影して、よき父を演じはじめる。そのうちニセの親子は心をかよわせあうようになるが、しょせんは演じるだけの仕事のこと、依頼人がもうこれまでにて結構といえば、ニセの親子は離れ離れになるだけだ。その嘘の関係にまざる本当の感情の機微のことなら、よく映そうとしていた。

それとは別に、引退した老俳優キクオ(柄本明)をなぐさめるために雇われてニセ作家として取材にいく、という長めの挿話がある。みんながみんな病んでいるという東京の病理に切り込むのをあきらめたとしても、代わりに熊本天草にカメラが旅立つなら、それはそれですばらしいや、とみていた。老樹をおがんで土をほじくり、人生の秘密を問わず語りに語らせるのはすぐれていた。

天草行きの旅路に重ねて、東京のミアが嘘のにおいをかぎつけて、嘘つきの実母を問い詰める断片を挿入する。それははっきり弱かった。せっかく心はなつかしい天草の原風景にはばたこうとしているのに、東京の毒がうしろから迫ってくるのは、まずもって愉快でない。しかし単に不愉快であるだけでなくて、これは脆弱な構成をあらわにしているのではないか?

ミアとの出会いでフィリップは変わった、というのが映画の最大の転機になっているから、ふたりが決裂したままでは映画を終わらせることができない。和解させないままには終わらせられない。そうはいっても、ミアの物語をさらに引き伸ばせない。なぜというならば、きっとそこをふくらませようとすればかならず、ミアがそこへと追い込まれているグロテスクな文化の陰に踏み込まなければならないし、そうさせることを作家はのぞまなかったから、というしかない。

よってミアの隙間を埋めるために、老俳優キクオの挿話がすこしばかりの乱暴さをともなって挿入されたようす。結果として、キクオもミアも彼らそれぞれの切り詰まった苦を深いところで提示してもらうことはできなかった。そうでなくても、キクオのエピソードをミアのエピソードで不自然にサンドイッチすることはできてもたがいに交わることのできない形式の始末になっているわけで、語りをたばねるのに技術的な困難と失敗があるのはいえるとおもう。

ミアの事情を語ってもっとふくらませることのできる潜在力はまちがいなくあった。賢くてやさしい娘が閉鎖的な母子関係にはさまれてどこか抑圧されているというときに、狂った受験競争のプレッシャーでも、平均的な世間から母子家庭に加わるプレッシャーでも、とうとう最後まで不在のままだった実父の席についてでもなんでも、この家庭をいびつに抑圧しているその病理に切り込むことはできたはず。そこまでの技量をみせることができなかったとき、映画は丸くおさまったということもできれば、平均的にとどまったともいう。

なにかこの作家には臭いものに蓋をして済ませようとする邪心があるな、というのを典型的にみせているのは、たとえばあのやさしいセックスワーカーの女性が主人公のよき理解者で、それはベッドのなかだけでのことではなくて、たまたま縁日ではちあわせてもつごうよく深い理解と愛情を示してくれる、というのをそうとは気づかずに残酷に描いていることを指差すことができる。

多田が経営をミスって横暴なところをみせたあと、多田自身の家庭がレンタルファミリーそのものだったことを映す興味深いシーンもそう。深い悲哀を示唆しておきながら、表面的な説明にとどめて、しかも前後の文脈から不自然に乖離したままみせてしまっている。モチーフやアイデアはおもしろいのに、それを統合する力を欠いてしまっているのが欠点になる。深刻な病理を抱えているのに、最後にはうやむやに名誉回復したことになって大団円らしくすることにはどぎつい残酷さがある。

苦しむものには耐え忍ばせて、病理の根っこと切り結ぶことをあきらめさせる映画。映画そのものがあんまり病んでしまっていて好きになることはむずかしかった。

すぐれた材料はいくつもちりばめられているのに、どれひとつとっても記号としての記号が猛スピードでとおりぬけていくだけで、粘り強くしがみつく腕っぷしが抜けていることこそ現代的ともいうかもしれない。

といってもう終わりにしようとおもったけど、もうひとつあった。ふしぎなモチーフとして「窓からのぞく他人の生活」というのが反復する。フィリップは缶チューハイを飲んで、暗い部屋の窓から向かいのアパートの部屋部屋の生活をのぞきみする。それはヒッチコックの『裏窓』に言及しているようで、そのくせ背徳や罪の意識を欠いているのが不気味だったし、ニセの結婚式のあとで女性ふたりが接吻して抱きしめ合うホテルの部屋を窓の外から映してしまえば、どうしてここで神の視点があらわれるのかと疑いをもたせた。そういうショットが序盤からあらわれていたので、語りの技術に信頼をもってながめることはできなかった。