平将門の評伝を読む。文庫にはいったのは2005年のことで、もとの刊行は1975年。

生年不明、没年は940年。桓武天皇(737ー806)から数えて五代目の豪族はいまの千葉北部と茨城南部あたりを根拠にした。将門をつまはじきにした親族との私闘をあらそううちに勢力は増して関東一帯を支配することができてしまった。そうなっては反乱者として滅ぼされなければならない。統治権を掌握してから討死に向かって駆け抜けていくまでは長くとっても三年ばかりのことだった。

関東は辺境だった。まず征夷といって関東より北の蛮族を征伐するための根拠地だから、農民たちは防衛と入植を兼ねて陸奥へ強制移転させられた。九州沿岸の防衛のためにもまた東国人が徴発されて、手弁当の兵士たちは農地をはなれて陸路とおく西国に向かわされた。あいた土地は朝鮮半島から逃れてきた流民たちの入植地にもあてられた。京都からとおくはなれた辺境はまったく植民地のように支配されていた。

中央から赴任した官吏たちは権力と暴力を背景に大規模私田を経営した。在地の有力農民らは官吏の支配を嫌って、京の貴族に土地収益を寄進して庇護を得た。いずれにしても農民はしぼりあげられる。こうして土地を失った百姓が群盗となって京に流入する、となれば、政府の支配力はどうしようもなく弱まった。

将門はこのうち、中央から赴任した官吏の家系に生まれて、もともと収奪する側のものだった。どうやら女性をめぐるいざこざのために一族とのあいだに不和を生じて孤立にもおちいっていた。地方豪族の一般的なキャリアにならって、中央で士官することをこころざしたはずだが、無位無官のままでいたのは一族の妨害があったことの裏付けであるようだ。

こうして貴族でも落ちこぼれでもある将門が平家一門との私闘をあらそううち、おもわず発揮した天才的な戦闘術があれよあれよと戦争を勝ち抜かせるにつれて、あえぐ農民もあやしい無法者もみな大転換を期待してかれをあたらしいリーダーに押し上げた。京都に攻めいる意思こそもたなかったとはいっても、京都にとってはその経済を支える大植民地を失いかねない前代未聞の反乱となる。

あっけなくはじまった反乱はあっけなく終わる。改革者として期待されておしあげられた将門は、結局それまでとかわらない収奪のモデルを温存した。もちろん農民は失望するだけだった。あたらしい政治のビジョンはひとつも示さないで、これまでどおりのポストを身内で占めて満足するだけの凡庸な王だった。そして将門をかつてしいたげ、いま将門にしいたげられるにいたった平家の派閥のものが私闘の延長のようにして将門を討った。京都で任命された将軍があわてて関東にやってくるころには、もう反乱は終わっていた。

もともとあった問題のうち反乱が画期的に解決したことはまず皆無のようだ。大山鳴動して鼠一匹というやつ。それから二世紀して鎌倉幕府がいよいよできあがるときに、かつての失敗例として参照されたのはそうだとおもうけれども、将門のやったことで戦争以外のことはみな失敗にみえるので、これさえできていれば惜しかったのに、と同情するのもいまいちむずかしい。貴族と軍人が権力のゲームをどう遊んだところで農奴のようなひとびとが苦役しているのはなにも変わらなかったじゃないか、と残念におもってからよくかんがえれば、それはいまでもさほど変わっていないのだった。

評伝は『将門記』という軍記物語を史料にして、そこからの長い引用をおりおりさしはさみながら読み解く形式になってある。その『将門記』ははじめ負け犬のようだった将門の苦悶を、やがて勝ち進むにつれても傲慢そのものとはいえない、すこしへりくだった自尊心を読ませておもしろい。とくに「陳情」と呼ばれる、将門から摂政にこっそり送られたとされる長い手紙が『将門記』には含まれていて、その全文を引用してあるのもありがたければ、幸田露伴がこの「陳情」のことを文学者の立場からほめた批評文が載っているのも興味ぶかい。

あくまで「陳情」は文学的創造物であって、将門がみずから書いたものではないというのは自明とおもうけれども、そのことをあらゆるやりかたで論証するときの論法もおもしろければ、もしかして半世紀前にはこれがほんとうに将門本人の書いた手紙だと学会がまるごと信じる状況だったのだろうかとかえって想像させるのもおもしろい。

鶴岡の羽黒山に五重塔をおがみにいったときに、塔を創建したのは平将門とされていますと紹介するパネルをみた。将門が山形まで勢力をもっていたなんてかんがえたこともなくて、とんだ勉強不足とおもって評伝を読めば、幼少期に親に連れられておとずれた可能性くらいならともかく全盛期に東北まで力を押し出したなんていうことはすこしもなくて、羽黒山のことも結局は伝説のひとつのようであることをおぼえる。