北東北旅行のふつかめです。この日は大鰐温泉から角館までローカル線を乗り継いで鉄道旅行です。
朝ごはんをいただく前にいちど湯をあびるのに早起きします。だれもいない浴場をひとりじめして、脱衣場で冷たい水をゴクゴク飲みます。
本館でごはんをいただきます。ひとつひとつは小さな部屋をふすまを取り払って広くしたところに宿泊客はあつめられます。ごはんは盛り放題、りんごジュースはくみ放題です。もずく、わかめ煮、えのき汁、ホタテの煮物、鮭、かまぼこなどをすこしずついただきます。温泉卵がおいしかった。
特急の時刻表をあらかじめカレンダーに入力してそれに乗るつもりでいて、あんがいはやく身支度ができてしまったので、一本はやい鈍行に乗っていくことにします。ゆうべはふりましたねと女将さんにはなせば、朝までにやむと天気予報がいっていたとおりでよかったですと返されるのに見送られながら、チェックアウトです。すこし積もった雪はもうほとんど溶けているけど、キャンバスのスニーカーを不用心にはいてきてしまったもので、むやみに水たまりに足を突っ込んでしまわないように注意深く駅まであるきます。
十分ばかりの散歩のうちにちょっとした吹雪がきて、よそ見をする余裕はもてないでまっすぐいきます。駅の窓口は朝からあいていて、新青森からスイカで乗ってまだ下車処理できていないことを伝えれば、あとで適当な窓口で精算するための証明書をもらうことができます。大館で精算できるかはわからないですねと親切に伝えられながら、まずこの紙切れがあれば怒られることはなさそうです。
奥羽線で大館まで三十分。運転士さんは事務制服のかわりに作業服をきてヘルメットもかぶっています。ちいさな男の子がかじりつくように景色をながめていて、おじいさんが尊ぶようにかれをしずかにみまもっています。十人ばかりの乗客はみな本を読んでいるか、腕組みして考えごとをするうちうたたねして、スクリーンに血走った目を向けているひとのすくない景色がこころよくあります。県境にすすむに連れて雪はふかく、真っ白に埋まった田んぼの向こうにすべての細かい枝に雪衣をまとって枯淡な杉林を車窓にみます。水墨画のようです。
大館駅の改札でスイカの精算をしてもらうことができました。あたらしい駅舎はコミュニティ施設を兼ねて、高校生もご老人も駅のコンビニでちいさな買い物をしてのほほんとしておられます。お昼まで待って、駅前のレストランで曲げわっぱの鶏めしをいただく計画でいたところ、予定よりはやくやってきてしまったもので、ごはんはあとにしてここでも予定よりひとつはやい電車に乗って次に向かうことにしてしまいましょう。
乗り継ぎまでは一時間とすこしあります。駅前に「秋田犬の里」といって観光協会のビジターセンターとなっている建物を見学します。青森でも大鰐でもあまりおみやげらしい買い物の機会はそういえばなかったと思い出して、秋田犬のちいさいぬいぐるみを衝動買いです。ほか、あとでだれかに配ったり自分でおやつにするためのサブレーをいくつか買います。
おみやげやさんの奥が展示室になっていて、秋田犬の展示づくしになっているのをながめます。ハチ公の話はほどほどにして、津々浦々のご家庭で飼われているいろんな表情の秋田犬のスナップショットをこれでもかとみせたり、悪い顔選手権といって凶暴だったり狡猾だったりする変顔をならべて人気投票をしていたり、愛好家にはさぞたまらなそうなみせかたをしているのをたのしみます。厳しい雪のなかに暮らしてもおおきな犬がたのしそうにしていれば積極的な気分になるというのはほんとうのことだろうなと想像すれば、いろんな個性の犬たちが命そのものを表現するのを間近にみて暮らしているひとたちがいよいようらやましくみえはじめるのでした。
さて大館駅から鷹巣まで奥羽本線でふたたび十五分です。鷹巣はJRの鷹ノ巣駅舎と秋田内陸線の鷹巣駅舎がならんであって、その内陸線に乗るためにわざわざやってきたのでした。ちょうど奥羽本線が着いたその5分後くらいに内陸線も出ていくようで、とはいえはじめてやってきた鷹巣もすこしは見物したいものだから、一本まちましょう。次の発車は二時間後です。
駅前はふるい商店街になっていて、やっているお店はふたつかみっつ数えるくらいです。五分だけ歩けばレコードをかけるコーヒー屋さんがあるというので歩いていってみます。吹雪いてこそいないけど、からっ風が吹いてしみます。それで着いたコーヒー屋さんは臨時のおやすみでした。
ほかに行き場もなくていちど駅舎にもどります。商店街にモダンで個性のあっておいしそうなラーメン屋さんがもう営業をはじめているのがみえて、ラーメンもいいなとおもいながら、まだ11時すぎのこと、いちどおちついて作戦をたてましょう。
観光地図をみれば、そばと親子丼のお店がいま歩いたのと反対のほうにあるようです。そこが開くのが11時半です。列車まで一時間すこしあるのも待たねばならないとなれば、ラーメン屋さんよりもそばやさんのほうが分がよさそうです。
はやめに様子をみにいってみます。もしまたおやすみだったらラーメンを食べようとおもって着いてみれば、開店前からもう五名ほど列を作っているのでした。末尾についてすこし待って、時間通りにのれんが出て、いれてもらうことにです。すぐに満席になって、相席でも構いませんかとたずねられて、三角形の広いテーブルに知らないおじさんとふたりでつきます。どんどんお客さんはやってきて、いまいっぱいなので車でお待ちいただいていますが、というのをなんども聞きました。
そばと親子丼のランチセットをたのみます。ガッツリサイズとレギュラーサイズというのがあって、レギュラーにします。ピアノ名曲集がかかっているのをぼうっときいて、三十分くらい待って、まずサラダとお漬物をいただきます。それからもりそば。それから親子丼です。コース料理みたいにタイミングをはかって出してくれるというよりも、すくない料理人さんがたくさんのお客を相手に手作りしているから、先に出せるひとには先に出るけど、あとのひとはゆっくり待つという仕組みです。プリプリの親子丼が随一にうまかったです。やわらかくも歯ごたえのある鶏肉から炭火の香りがたって、やあ、これが比内地鶏のうまさなのかと、若いときにはありがたみを知らなかった名物料理を食べたのでした。おそばも香り高くて美味でした。
遅れはしないかとすこし不安にもなりながら、もしそうなったら駅で二時間待つだけのこと、とかえって開き直ってつとめてゆっくり待ち味わう料理こそおいしいものでした。食べ終わってみればぴったり時間通りです。
駅での待ち時間は長すぎず短すぎず、十分くらいに済みます。内陸線の窓口で角館行きの切符を買って、自動販売機でミネラルウォーターをひとつ手に入れて、阿仁合行きのディーゼル車に乗ります。黄緑色の一両だけのワンマンカーです。このちっぽけでたくましい列車がこれから一〇〇キロ南まで乗せていってくれるというのにワクワクしているのに気づいたら、心ははっきりにわか仕立ての乗り鉄です。
部活帰りの学生がふたりばかり。カメラをぶらさげた還暦過ぎのおじさん。いきなり熟睡しているご老人。これくらいが乗客のぜんぶです。中吊り広告は「闇バイトに注意」「知らないひとに裸の写真を送らない」などとだいじなことばかりいっています。
ディーゼルエンジンがドコドコいってゆっくりうごきだします。西鷹巣まではまだしも切り拓かれた平野で、形式的に停車するけど誰も乗り降りするはずもないと運転士さんもわかっていて、きびきびドアを開け閉めしてどんどん進んでいきます。
欄干もないむきだしの鉄橋をふんでリズムよく鳴らすのにこころよく耳すませながら米代川をわたっていくと車窓の向こうには白鳥がゆったり飛んでいるのがみえます。雪どけの田んぼに小鳥たちがたむろしてぴちゃぴちゃ水をなめているのがみえます。畔の雪壁にぽかんと穴があいて、われさきにというようにかわいいふきのとうが十個も二十個も咲いているのがみえます。長い冬を耐えて耐えていよいよ春がくるぞと自然がしずかに叫んでいるのがあんまり神々しいのによどんだ心が惑いながらもおろおろ清められていくのにまかせて、世界一の絶景に見送られていきます。
杉林を突っ切ってトンネルをいくつも抜けながら阿仁合まで一時間というのがおそろしくはやくすぎて、ここから角館行きに乗り継ぎです。ここからはむかし見慣れたクリーム色の車両です。途中下車して観光してきた若い旅行者たちも乗ってきて、十五人くらいを乗せていきます。萱草と笑内のあいだで阿仁川の高いところをわたるときに、運転士さんは速度を落としながら左右にみえる地形の案内をサービスしてくれます。比立内と奥阿仁のあいだでももういちど、こんどは阿仁川と比立内川が渓谷のなかで合流するところを紹介してくれます。
阿仁マタギ駅までくれば、たぶんここへは小学生のときの遠足かなにかでこの路線に乗ってきたはずで、だんだん馴染み深い地名が増えてきます。西日がだんだん車内に差しこむのがあたたかいのも安心をさそってうとうとします。
田沢湖のそばの松葉から、外国からのツアーのお客さんがたくさんお乗りになってにわかに混雑します。ひとりで荷物をひろげていたボックス席をあけておばあさんに座ってもらいます。ゆうべ壊れたドイツ語を話したことをおもいだすにつけて、隣の国のことばをかんたんにさえわからなくて黙ってしまうのを情けなくもおもうのでした。
角館駅で終着です。ちょっと先のフルーツやさんでソフトクリームを食べるか、それか踏切の向こうに教頭先生の喫茶店があるのに寄っていこうかとも構想していたけど、昼寝でぼうっとするほどにはつかれた様子もみて、すぐのこまちの切符をとってしまいましょう。すると新幹線では案の定というぐあいにうとうとして、盛岡で止まったのも気づかないで、すぐに仙台まで帰ってこられたのでした。
この時間に戻れたから、まっすぐ帰ればいつもの時間に夕飯を食べて、それからジムにもいって気持ちよく寝られそう。そう打算して仙台もすぐに発って、まるいちにち列車に揺られた身体をうごかしてリセットしたらどろのようになって寝ます。