歴史の本を文庫で読む。原本は1996年の出版で、文庫化は2011年のこと。結婚式で東京にいったときに、丸の内の丸善でなんとなく選んできた。

サラーフ・アッディーンは1137年ないし1138年の生まれで1193年に没する。だいたい源平合戦の時代のひとということになる。イスラーム暦での生年は明らかだが、生まれ月がよくわからないので、西暦にうまく写せない。

こんにちのイラク北部でクルド人として生まれ、シリアで少年として育つ。アレッポで軍人としてデビューして、将軍として征服した先のファーティマ朝カイロで宰相となる。

アイユーブ朝の創始者ということになっているが、独立王朝を高らかに宣言して政治をはじめたというのでもないようだ。カイロで宰相になるにあたって、角が立つので勘弁してほしいとさえおもっていたくらいだ。もろもろの政治的思惑でリーダーに据えられた。

ひとたびトップに立てば優れた指導者として、ナイルの肥沃な土地を存分に活かしてよい政治家として頭角をあらわした。呼ばれてきたサラリーマン社長のような立場からはじめたキャリアとはいえ、シーア派のファーティマ朝をうまいことスンニ派に転向させたら、これはアイユーブ朝による統治のあたらしいはじまりといって構わないだろう。

三章だての構成となっている。第一章はファーティマ朝を倒しにエジプトへみたび出征するまでを語り、第二章でエジプトの宰相となったサラディンを描く。そして第三章でサラディンはシリアを統一した足で十字軍へとジハードを挑みエルサレムを奪還する。55歳にしてダマスクスで没する。

イスラーム世界の権威として、バグダードのアッバース朝カリフが健在の時代のことだ。健在とはいっても、セルジューク朝の保護あってのことでもある。しかしスンニ派の各勢力はアッバース朝カリフのお墨付きをなにかと得なければ示しがつかない。エルサレムをキリスト教徒から奪回してさえ、カリフに疎んじられてしまえばサラディンの気は安らかでない。

ファーティマ朝にもカリフがいるが、アッバース朝のカリフこそが正統ということになっている。ムハンマドから数えて五代目のアリーがたおれたあと、ウマイヤ朝がカリフの世襲をはじめたことを認めないのがシーア派の原教義だったことをおもえば、ファーティマ朝に別のカリフがいるのはもっともなことだ。

そのファーティマ朝が宗派のことなるサラディンを宰相に据えたのは、若ければ御しやすいとの打算もあったようだ。実際、サラディンは急いてことを荒だてない。

シーア派の政治体制をスンニ派に転向させる慎重なやりかたがおもしろい。まずスンニ派のマドラサ(法学院)をカイロに建設する。さらにシーア派の首席カーディ(裁判官)を首にして、スンニ派の後任にすげかえる。環境をととのえる。

いよいよスンニ派が復活するのは、ファーティマ朝カリフの病状が進んだときのことで、金曜日の説教(フトバ)をしてエジプトのカリフの名を削除せしめたときがそうだ。アッバース朝カリフの名のもとで信徒が語りかけられれば、それが転向のときだ。

各地でスンニ派の復活を伝えられた民衆も豪族も、なんの反対もなくそれを受け入れる。そして病床のカリフはそんなことも知らないまましずかに息絶える。ひとつの権威がしずかに興り、もうひとつの権威がしずかに滅ぶ。そのサスペンスめいた手続きの描写こそ、この本のなかにあっていちばんたまらないものだった。

イスラーム世界は宗派が分裂しているところへキリスト教徒までが侵入してきて、泥沼めいた三つ巴となっていた時代のことだ。ムスリムを結集させて十字軍を追い出したのがサラディンだ、といい切れたら、これは爽やかな英雄の像となる。

現実にはサラディンの死後にキリスト教徒はエルサレムを再奪回するし、百年後まで聖都を根拠にシリアを戦場のままにする。キリスト教世界にしてみればイスラームの知識のお持ち帰りもできたけれど、イスラーム世界にしてみれば得たものはなかった。人命は失われ、都市と農地は破壊され尽くした。それだけだった、と著者はいいきっている。

異教徒への憎しみがあまりにも強いヨーロッパの奇妙な信仰者たちは、よその庭とおもって荒らしまくったシリアでいよいよ捕虜とされたとき、寛大に放免してくれたサラディンのことを懐かしく記憶して英雄として称えた。とはいえ、それはサラディンの特質ではなくてイスラームの教えの基礎であるのだともこの本はおしえる。ほかのスルタンにはもっと処刑されたというなら、それは単に彼らの度が過ぎたというだけのようだ。