SF小説を読む。カナダの作家の処女作は80年代の決定的な名作と謳われているもので、翻訳は黒丸尚。
かつて電脳空間をまたにかけて若い腕を発揮した「カウボーイ」のケイスは、雇い主を裏切った代償に脳に障害を負わされて、いまではコンピュータに意識を「没入(ジャック・イン)」することもできない。物質世界では五体満足にして、仕事のあては永遠になくしたまま千葉シティをさまよう。
ドヤで待ち伏せた凄腕のモリイに導かれて、彼はアーミテージなる謎の男に引き合わせられる。どんな医者にみせてもお手上げだった彼の脳を修復させて、アーミテージが命じるのはスペースコロニーを牛耳る財閥の、難攻不落の人工知能に潜り込むなのことだった。
といったところで、テクノロジーに覆われた世界のありさまを偏執的に詳述することに小説の目的はおそらくあるから、あらすじはあってないようなものだ。
破格の文体のことを革新的と呼ぶのは自由だけれども、ふつうの目でみれば悪文としかいいようのない一巻を苦しみながら読む。読み進むうちにこの奇特な文体のリズムはきっと掴めるはずだとおもいながら我慢を重ねて、とうとう最後までそれは叶わなかった。
技術革新によって常時オンライン化した街のことを退廃したスラムとして表象したことをもって伝説的な予言の小説とこれを呼びたがるのは、わからなくもない。しかしものの機序をいうなら、作家が提示した世界像をユートピアと誤読した男たちが仮想空間のディストピアをほんとうに作り上げてしまった、というほうが合っているとおもう。
2020年ころにこの本を買ったまま読まずに本棚に挿しっぱなしにしていたのをとりだして読みはじめるときにも、サイバーパンクとひとがいってそれがありがたいものであるかのようにもてはやすのをスカしてやりたい気分がいくらかあって、これがその原点というならどんなものかみてやろうと斜に構えてのぞんだのだった。案の定に、たのしい読書とはならなかった。
もっとも、ディストピアのアイデアがあればかならずそれを実現したがるいつまでも未熟な社会のほうが恥ずべきものであって、作品そのものを責めるわけにはいかない。作家自身が尊大な自信よりもむしろ羞恥心をもってこれをおくりだしていたことをインタビューから知れば、いつまでもデビュー作の話ばかりして作家の成長を追わない読者の側にもいくらか責めはあるとおもう。