1947年のモノクロ映画をみる。

ラバに乗った若い男が丘のうえのうらぶれた教会をおとずれる。明かりもなく寂れた石壁に囲まれてひざまずく男を逆光の月あかりが激しく照らす。やがて「あなたはだれ」と問いかける声を男がみやれば、洗礼も受けていない赤んぼうを抱いたその女性は神父の帰還を知るのだった。

神父(ヘンリー・フォンダ)がみずから鳴らす鐘の音が何十回も響けば、村のひとびとは思い思いにろうそくを携えて教会に向かう。未洗礼の子どもたちが順番に聖水を受けていく。

革命政府を名乗るこの架空の国の警察権力は、酒と信仰をひとしく弾圧してきた。飲酒を犯した農民の群れに罪をいいわたす警部補(ペドロ・アルメンダリス)は、この国で最後の神父を殺したのは俺だと豪語する。

警察署長(レオ・カリーリョ)は「最後の神父」がもうひとりあらわれたことを彼に伝えれば、騎兵隊は神父をかくまう村をたちまち蹂躙する。こうして神父の逃亡と葛藤がはじまるのだった。

逃げろという村民のやさしさに導かれて国外逃亡をはかる神父は、逃げ出すたびに呵責にさいなまれてまた村へ戻っていく。そもそも冒頭でおとずれた教会のことを「わたしの家だった場所です」といって、映画がはじまるまですでにいちどは教会を捨てていたことを示唆している。

目にみえる加護によって信仰をとりもどすことの寓話ではないことの秀でた映画。やりなおすたびに挫折しながらもまたやりなおすことの、あるいは平凡な倫理をまっすぐにあらわすことに詩情がある。神はいるかもいないかもわからないが、人間の美徳ならたしかにこうしてあるよと指さしている。

賞金稼ぎのこそ泥(J・キャロル・ネイシュ)に秘跡のためのワインをひと飲みにされて、死者のためのミサをおこなえなくなった神父は、アル中を装って闇市に酒をもとめる。ようやく手に入れたワインを、どうせ飲むならみんなで飲もうやと次々に注がれては猥雑に飲み干されていくときの、ひとりだけシラフの神父の無力を伝える場面がよかった。

警察の騎兵隊が神父を捜索して村を荒らすとき、馬の群れは麦わら帽子を踏み潰し、大小の陶器を粉々に砕き水はこぼれ、じゃがいもは地面にぶちまけられ女と老人は押し倒され、物干し縄は切断され洗濯物は土にまみれる。乱暴の不快さを端的に伝える一連のショットのみせかたが『七人の侍』で山賊の襲撃を描くときの手さばきに似ていると見立てれば、たしかにそうかもと納得もする。